中将屋敷登拝記(1)中将屋敷ってなに?

中将屋敷ってなに、どこにあるの?

大谷命の石祠(令和6年4月13日登拝):石祠の刻字:正面・大谷命。右側面・青嶌氏太祖六宮中将殿。左側面・宇時安永戊戌年七月七日乃以此命之発日遠孫青嶋兵部藤原茂彦修造之。安永戊戌年は西暦1778年。青嶋茂彦は青嶋家第二十四代弓削神社神主。

 

 中将屋敷のことは、「朱印くじの絵柄を公開」の5番目の札、”中将屋敷 祀大谷命」で紹介しました、市川大門四尾連湖公園線の途中、中将橋から中将沢を500mばかリ遡り沢から離れて北方向にジグザグと急登すると緩斜面の台地の着きます。昭和時代には桑畑だったが、平成になってヒノキの植林地に変わりました。       市川大門大崩7183番地他3筆約5反歩の畑地です。ここを中将屋敷と言います。このほぼ中央に大谷命の石祠があるのです。

ヒノキの林の中、石祠の背後に一風変わった樹木が生えています。50年前青嶋社家一統がお参りした時には無かった樹ですが、椋(ムクノキ)・落葉樹と思われます。根本近くが板根状になっており、神聖な樹です。建築材、器具、楽器材、薪炭に使われます。

中将屋敷の謂れとなると、古い話になります。甲斐国志神社部第十四に「昔富士山焼ケル時六ノ宮中将某勅使に立ちて鎮祭ス旅館大日向古屋敷ノ地ニ在リ是則神主二ノ宮氏の祖ニシテ後孫累世此ニ住居ス因リテ中将屋敷トモ神主古屋敷トモ云六ノ宮祠アリテ今ニ享祀不懈(おこたらず)云」とあり、延暦の大噴火の時のことで、延暦18~21年(800~802)のことです。

六ノ宮中将某とは、大伴武日の末裔らしいが、実名は不詳。六ノ宮とは甲斐八代郡の六番目の官社、中将とは古代中将軍の官名で、大領職として、富士噴火の被災民の救済と復興に当たった。      延喜式神名帳(延長五年、927)に記載の官社、甲斐の国二十座の内、八代郡に六座あり、弓削神社はその一座で、しかも確定しているのは弓削神社だけで、その他はそれぞれ複数の候補があって論社となっている。

中将屋敷登拝ルート、第二堰堤は昨年できたばかり、沢沿いの道が途絶え、ここから右岸を20m以上高巻し、斜面をトラバースして中将屋敷を目指した。       この話は次回にアップします。

 

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氏子総代会IT担当

1件のコメント

  1. 先日は、険しい山道を登拝していただきましてありがとうございました。皆様大変であったと存じます。分かりやすい説明をありがとうございます。立派な御神木ですね、とても神聖さを感じます。写真をアップしていただいてありがとうございました。状況がとてもよくわかりました。

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