酒折の宴を想像して笑っては不謹慎でしょうか

東国平定の務めを果たした日本武尊とそのご一行は、常陸国から、武蔵国、相模国を過ぎ、足柄から篭坂峠を越えて甲斐国にはいり、御坂峠を越えて酒折に到着しました。

現在梅園「不老園」になっているところは、当時は原生林でありました。ご一行はしばらくそこで宿泊することにしました。

富士山が御坂山系の山々の上にその整った威容を浮かべていました。右には赤石山脈の高くそして急峻な山々が連なっているのが見えました。

「皆の者、長旅ご苦労であった。しばらくこの地に留まることにする。今宵は宴じゃ!」

日が農鳥岳あたりから沈むと甲府盆地は漆黒の沼地と化しました。昼は甲府盆地の背景であった甲斐の山々は、そのスカイラインの下は甲府盆地同様、闇と化していました。そして月が夜空を藍色に染めていました。

臣たちにようやく酒の酔いが回って来ました。彼らは今までの道中での出来事についてそれぞれの思いを語り合っていました。

ここで尊が詠じられました。

「新治筑波を過ぎて幾夜かねつる」

臣の多くは長かった旅についてそれぞれ思いを巡らせておりました。するとかがり火を焚く係の翁が言いました。

「かがなべて夜には九夜日には十日を」

(意味:「長い旅でございましたねえ、殿下。」)

すると臣のひとりが、翁の返しが歌になっていることに気が付いて声を上げました。

「おっちゃん、よう詠んだ!ええぞーっ!」

他の者もそれに気が付き、宴は大きな笑い声に包まれました。そして後世、酒折は「連歌発祥の地」と呼ばれるようになったのでありました。

この一件で翁は人心掌握の才を買われて東国の国造の職を賜りました。

またこの宴で、副将軍・大伴武日は靫部(ゆけひのとものを)の称号と市川荘を賜りました。火を焚く係りの翁のついでではなく、最側近にして副将軍である大伴武日の献身と功績に報いるため、尊は前々からお考えであったのだと当ブロガーは考えます。当時市川荘は遠くに聞こえた土地だったのだと想像します。

以上、連歌の発祥の宴はとても賑やかなものであったろうという、当ブロガーの勝手な想像であります。

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氏子総代会IT担当

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