六番目の絵柄は、 手力男築 印沢大曲 とあります。手力男とは,天照大御神が岩戸に隠れたときに怪力で岩戸を開いた天手力男命(アメノタヂカラオ)で、瓊瓊杵尊の天孫降臨の折も従者となった神ですが、ここでは印沢村の力持達が、印沢の大曲り(オオマガリ)を築いたということになります。
まさに神業です。印沢(印沢川)とは、仏岩・帯名峠に源を発し、中将橋から北流し入山地内で90度曲がって西進する。川丈2.9㎞、源流から屈曲点までの勾配は12%で町内の河川では最大斜度となっています。ここから富士川までが天井川になっている。昭和35年ころには三面コンクリートに改修工事がされ、住民は水害の恐怖から逃れることとなった。その堤防・河床は周囲の民家の屋根よりも高く、身延線と県道がトンネルを造って下を通過している。この大曲りはどうしてできたのだろうか?なぜ集落を分断する天井川になってしまったのか推理する。
市川大門地内の笛吹川に流れ込む河川は、東から芦川、塩沢川、鳴沢川、印沢川がある。いずれも太古より流出する土砂で扇状地を作り、平塩の丘を形成した。平塩の丘は芦川渓谷から流出した多量の土砂が反復堆積した古扇状地で、県道四尾連湖公園線あたりで印沢の扇状地と境を接している。弓削神社はこの境の印沢扇状地側にあり、流路が直進して北に向かえば神社を飲み込むことになるのだ。 高田・印沢は印沢扇状地内にあり、印沢扇頂部で90度曲がって天井川となった。通常扇状地では洪水のたびに流路を変える首振り現象が起こるが、印沢の上流は崩れやすく多量の土砂が押し流され扇頂部でせき止められて直角に曲がり、村人たちは流路を安定させるために両側に堤防を築いてきたのであろう。その始まりは遠く縄文・弥生の時代に遡るのではないか。貞観の富士噴火のころにはまだ浅間神社の周辺に集落があり、その後印沢川の治水とともに暫時扇状地上に田畑集落が移り現在の街並みになったといわれている。
ひくきより 高きにすすめ 近きより 遠きにいたれ まだ若き身は 青嶋貞真
印川が甲府盆地に出ようとするところで、あたかも何か大きな力で押し曲げられたかのように急激に曲がっていることについて、いつも不思議に思っていました。有史はるか以前の縄文・弥生時代からの、私たちの先輩・ご先祖方の力の合計なのですね。それが神様の力とも言えるわけで。成程!!!、です。