弓削神社の御祭神・大伴武日命の墳墓であると伝わる弓削塚が神社の南徒歩5分の葡萄園の中に鎮座している。 弓削神社の社叢の南には、二宮住宅があり、さらに上ると木屋園(葡萄園)があり、葡萄園の棚下、住宅寄りに弓削塚がある。 三島山の山麓線に沿って広域農道が走り、市川大門四尾連湖線との十字路の西北かどに木屋園の農舎があって、そこから見下ろすと神社の杜がよく見え、その中間あたりに弓削塚が存在する。この葡萄園内で弓削塚と金毘羅山を結ぶ線上にあと二つの塚があったそうで、その名残として弓削塚の祠の前に二枚の座布団状の平石が置かれている。

市川大門四尾連湖線と農道交差点の木屋園農舎より弓削神社の杜(もり)を望む。

12月4日甲州ブドウの紅葉がまだ残る棚下の木漏れ日の中に弓削塚の石祠が輝いていた。

円墳の手前に注連縄を張り、神饌品を供えて拝礼の手筈を整えた。

令和4年12月27日の弓削塚の様子。ぶどう棚は完全に落葉している。印沢扇状地の中央部分になるが、10m位西に急な崖があり、3m位に石垣で葡萄園の境となっている。下は旧印川の氾濫時にえぐられたのであろう。印川はこの南で山裾に沿って大曲して天井川となり富士川に流れ込んでいる。
弓削神社の御祭神の一柱である日本武尊は東征の帰路、甲斐の酒折の宮で「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と問うと近くにいた火焚き老人が「日々(かが)なべて 夜には九夜 日には十日を」と答え、この問答が酒折の連歌発祥の所以となった。
この後 大伴武日命は靫部(ユキベ)の称号を与えられ、やがて日本武尊が天皇として即位するであろう時には脇に仕える役目を負い武人の棟梁となることが約束された。
日本武尊は奈良を目指して帰途に就くが途中崩御してしまう。 大伴武日の命は市川大門の地に住居を構え、一帯を治め東国の守りについた。
大伴の子孫や住民たちはその徳を慕い、命の館跡に靫部社を祀り、のちに弓削神社となりました。弓削塚はその墳墓であろうとされている。およそ5~6世紀の古墳時代後期のころかと思われます。
「鳴りはづの 音をとどめし 大伴の ゆきべの宮は 世に聞こえけり」 飯塚久敏
「大伴の 名におふ靫負(ゆげい) あともひて 東(あづま)の夷(ひな)を 掃清(はききよめ)めつつ」奥河内清香
「おのづから 心もすずし みしめ縄 弓削の社の 神垣のうち」 義清朝臣