中将屋敷登拝記(3)大谷命の石祠に禮拝

大谷命の石祠(60*32*55cm)安永七年七月七日修造之(1778) 

石祠の右側面:靑嶌氏太祖六宮中将殿石宮とある。

左側面:于時安永戊戌(七年・1778)年 七月七日乃以此 命之発日遠孫青 嶋兵部藤原茂彦 修造之

中将橋から直線距離で約300m、標高380m→450m高度差70m、勾配0.23。第二堰堤の約15m上をトラバース中の斜面は約45度あり、直下の堰堤が小さく見える。足元の落ち葉をかき分け足場を作りながらカニ歩き。先頭の二人が張ったコブ付きロープで安全確保しながら進んだ。直線で300mを1時間以上かかって漸く中将屋敷の台地に到着、なだらかな斜面でヒノキの植林地となっており、すぐに昼食。石祠は斜め上30mほど東方向にあった。

石祠の正面。中央上部に紙垂らしき紋様が見える。右下部の四角錘の穴は鍵穴を模したものだろうか。左側の大谷命は大伴武日命の諱(イミナ)で、日本武尊の東征の時の副将軍で、帰路酒折の宮で靱部(ユキベ)の称号を賜った。大伴武日命は其の後この地(市川大門)に留まり、周辺一帯を浅めた。弓削神社はその子孫や徳を慕う住民により創設されたもので、社号の弓削はユキベの転訛したものと言われている。また、靱部とは天皇即位式の時に武官の長として御側に立つ人の称号とされている。
 

石祠の法量:60*32*55cm。              左側面:于時安永戊戌(七年・1778)年 七月七日乃以此 命之発日遠孫青 嶋兵部藤原茂彦 修造之    左側面に刻まれた文字の彫が深く鮮明で、安永七年に彫られ、正面と右側面はさらに古く最初からあったもので、荒れた状態だったものを安永七年に修理し建て直したということだろうか。  「七月七日乃以此命之発日」もこの石祠を再建した日であり、またこの日を大谷命の命日(たちび)として毎年お参りしたいということか?その様に解釈したいと思うがどうでしょうか?

石祠の棟の鬼板の下・破風の部分に”日の出半日足紋”が刻まれている。上の左の図は”鍋島日足紋”と言い、その上半分を切り取った紋で、太陽が水平線上に現れた時の光の筋を表している。

参拝を済ませ、14時に下山開始した。下山の様子は次回に報告します。

 

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氏子総代会IT担当

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