弓削神社有形文化財大鳥居外規格仕様書
1 名称 および員数
鳥居 一棟
楼門(随身門) 一棟
拝殿 一棟
本殿 一棟
2 所在地
市川三郷町市川大門二ノ宮6373番地 弓削神社境内
3 所有者
弓削神社代表役員 宮司 斉藤 實
4 建立年代
鳥居 文政年中(1818~1829)
楼門(随身門) 天保元年(1830)
拝殿 年代不詳
本殿 弘治2年 (1556)
5 建造物の構造,形式および修理等履歴
5―1 鳥居
形式 両部鳥居
建立 文政年中(1818~1829)
修理 昭和62年(1987)11月23日
修理 平成21年(2009)3月 木工、板金、塗装
仕様
木製 笠木瓦葺き 袖柱傘木銅版葺き
親柱 直径38cm
高さ 462cm (貫下320cm)
間口 320cm
袖柱 25cm角 高さ176cm 貫全長318cm
5-2 楼門(随身門)
形式 入母屋造り瓦葺 六脚門(前室なく吹き放し)
三間一戸楼門 円柱 組物二手先 中備撥束 無彩色
建立 天保元年(1830)
修理 昭和49年(1974) 随身門修理
修理 平成15年(2003) 随身門屋根瓦葺き替え
仕様
正面三間(ミマ)5.2m,側面二間(フタマ)2.8m,棟高7.5m
基礎は周囲を切石で囲み土を盛り上げ安山岩の礎石に円柱を立て,
下層では大小四本の虹梁を備え,三段の貫,上層では長押と貫で固
める。四周に刎勾欄つき濡れ縁,庇は二軒疎垂木。
装飾の金具は使用していない。
5-3 拝殿
形式 入母屋作り平入り高床式寝殿造り向拝付き
建立 年代不詳
修理 昭和37年(1962) 屋根修理(萱葺きを銅版葺きに変更)
修理 昭和56年(1981) 拝殿渡り殿改築費募金
仕様
向拝 195mm面取角柱 大虹梁 海老虹梁 木階七段
拝殿 桁行五間11m 梁行三間6.6m 中央の両開板戸は二つ折り
桟唐戸 柱間は半蔀戸(ハジトミド) 開く時は軒の中央部の釣金具に引掛る。
銅版葺き 無彩色
長押に花菱の装飾金具。
四周に高欄つきの廻り縁をめぐらす。
基礎は外周(犬走)を切石で固め土を盛り上げ自然石の束石に柱を直接のせる。
床下は吹き放しである。
5-4 本殿
形式 三間社流造り 銅版葺き 無彩色
建立 弘治2年 (1556)
修理 寛政7年(1795)本殿屋根替え(檜皮、箱棟、天井、棟木下地、神紋、鬼面。
甲府 美島町 萱大工久左衛門)
修理 明治17年 (1884)本殿その他営繕 檜皮葺
檜皮師 小泉與右ヱ門
修理 昭和37年(1962)本殿屋根修理(桧皮葺を銅版葺きに変更)
大工 一瀬忠義 屋根職 市川金一
仕様
向拝 195mm面取角柱 大虹梁 繁虹梁 木階七段
桁行三間3.3m 梁行二間1.86m 木階下に浜床
三間とも両開き桟唐戸,内陣は一部屋で仕切りは無い
両脇の濡れ縁に脇障子,刎勾欄が木階,向拝柱まで続く。
身舎(もや)柱は円柱(Φ150mm),柱間は横板壁とし,
床柱は八角柱(150mm),自然石の礎石に乗り,地覆で固める
床下は壁板で覆い,内部は見えない。
6 由来
勧請年月は不詳であるが,日本後記に「延暦二十四年(西暦805年)十二月甲斐國巨摩郡弓削神社を
官社に列す霊験あるを以ってなり」との記載あり,この辺は古来,八代・巨摩郡の境であったので
時勢の変遷とともに或いは巨摩郡に或いは八代郡にその所属が移動したもののようである。
また延喜式神名帳に甲斐国二十座の内の一社に上げられており,少なくとも今より千三百年以前の創立である。
景行天皇四十年皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)吉備武彦(きびのたけひこ)大伴武日連(おおともたけひのむらじ)を従えて東国を平定し遷路甲斐の国に到り,酒折の宮に駐留せられた際,
靫部(ゆきべ)をもって大伴の連(おおとものむらじ)の遠祖武日に贈ると伝えられており,日本武尊は市川の地に1年余駐屯し大伴武日命を残して奈良に帰還した。大伴武日命はその後この地に留まり
居館を造営しこの辺一帯を治めたが,その徳を慕う子孫と住民が本社を造営したもので,社号のユゲはユキベ(靫部)の略されたもので,それ故当本社の創建は遠く成務仲哀の時代であるといわれている。
当社の南にユゲ塚という古墳があり,その辺りの字名を御弓削と呼び伝えて大伴の武日命の墳墓にして、当社はその舘跡なりとも言われている。当神社宮司青嶋家は大伴武日命の後裔にて,三十一代に及び代々当社の神官を奉仕してきた。
江戸末期までは鳥居の前に老松があり,その形あたかも蟠龍の如く幾百年を経たかも知らず。古伝に,天正10年徳川家康宿陣の際此の松を見ていたく愛賞され,その後この松を「お言葉の松」と称し,広く近隣にその名を知られ、神社の御神木として敬迎せられたが,惜しくも江戸末期に枯れ死して今はその名を止めるのみである。
甲斐源氏の祖刑部三郎義清,市川の郷に館していた時,本社に通夜し次の歌を詠んだ。
おのずから心も清しみしめ縄 弓削の社の神垣のうち
明治六年郷社に列す。
境内に白紙社あり,天日鷲神・津昨見神を祀る。他に地主神・東照宮・衢神社,祖霊社の境内社あり,昭和五十九年覆殿を新築,一棟に納めた。
当神社の境内の大部分はシラカシの自然林で,特に社殿の後方では純林を形成し,総数60本余,大は目通り3メートル,樹高23メートルに達し,県下稀に見る林叢は往古の暖帯林の残されたもので,この一帯の古い森林の様子を考察する上に貴重なものである。
7 弓削神社建造物の建築文化財的価値について
鳥居は弓削神社の社地約2100坪の天然の森を背景に西向きに立っている。朝は日の出に向かって礼拝することになり,厳かな気分を味わえる。緑の森を背景に重厚で優雅な姿は峡南随一である。
鳥居の前に立つと親柱と貫を額縁にしたようにその向こうに随身門が見え,その先に石の階段が垣間見えて,拝殿は直接見えず神秘さをかもし出して入る。
笠木の瓦葺も珍しく,創建文政年中とあり歴史的価値がある。甲斐国志に板葺きとあるのは現在の鳥居よりも一回り小さく,文政年中に再建されたものである。貫までの高さと間口が同じ寸法で,親柱も太く,重厚さと威厳をもたらしている。
弓削神社の建物は鳥居,随身門,拝殿,本殿と一直線上に配置され,随身門と拝殿の間,拝殿と本殿の間,さらに境内南側の石垣で区切られ,本殿の後背の森へと順に高くなって神域に達するように配慮されている。中参道から上参道へ1.4mの階段,
本殿は更に1.6mの石垣の上に建てられている。上中下の参道の長さはほぼ七五三の比率で吉祥寸法になっている。
また参道は,随身門と次の石段との間は横にずらし,石段を登って拝殿までを微妙に斜めに向けているのは,参拝者が神様と正対しない為であろう。その故,随身門と拝殿の棟の方向は並行ではなく3度の角度でずらしてある。鳥居と随身像以外はすべて彩色せず,木地のままである。
随身門は天保元年(1830)建立と伝えられるが,完全な和様で,彩色がなく質素な造りであるが,通常八脚門であるところを前二本の柱を省いて吹き放しとしている所は軽快さと“あそび”を感じさせ,江戸文化の爛熟期の作風を思わせる。正面の大虹梁,親柱間の中虹梁,左右の格子上の小虹梁と虹梁は四箇所あり,木鼻の獅子や二階欄間の彫刻,躯体を支える組み物は二手先で斗栱の一部には四隅に脚の出た枡形も使われ,細かな細工をしている。
左右の格子内に収まる随神像は彩色が剥げ,足元,手首などが欠け,共にいたみが進んでいる。向かって右側の左大臣(看督長カドノオサの兵杖と,左側の矢大神(闇神カドノモリカミ)の弓矢が失われているが,お顔の表情,姿かたちは平安時代の趣きがあり,片足だけ胡坐にしているのも古式に則っている。
拝殿は東西に石垣で3区画された中間部に位置し,桁行き五間,梁間三間,一重入母屋造りで平入り 向拝付き 銅版葺き,無彩色であるが明治,
大正期迄は萱葺きであった。向拝は流れ作り 面取角柱に水引虹梁,海老虹梁,一手先組み物で二軒垂木を支えている。五段の木製階段で縁に上がり
拝殿に入る,入り口は二つ折り桟唐戸,壁面は14枚の半蔀戸,腰下半分は嵌め込み固定されている。半蔀戸は軒に付いている釣具で拭き放ち窓となる。
その上部はすべて漆喰塗りの壁となっている。天井小屋組みは4本の梁にそれぞれ2カ所づつ平三斗を組み桁2本を載せる。周囲4面は垂木板葺きの
化粧小屋裏とし桁間の内側桁行き三間,梁間1間の格天井とする。建物の外周に1m幅の切れ目縁と勾欄を廻らし,中世の寝殿造りの様式を伝える。
両側の妻飾りは中央に蟇股両脇に一手先組み物で妻虹梁を支え,その上に大瓶束,一手先組み物で棟桁を支え,蕪懸魚を置く。箱棟鬼板には木製の
赤鬼を載せる。
本殿は典型的な三間流造りで,弘治2年(1556)建立とされるもので,桁行三間,梁行二間。内陣(身舎)の身舎柱は円柱で,三間ともに両開き桟唐戸(框戸)とし,それ以外は嵌込横板壁とし窓は無い。
身舎柱は上から頭貫,鴨居,長押,敷居,廻り縁,床下は八角に削られ中間に貫を入れ,基部を地覆いで固める。
正面三間の内陣(身舎)の前面に葺き降ろしの一間通り(庇)を取り込み外陣とし,さらに正面中央間に向拝(孫庇)をつける。
周囲三方に勾欄つき切目縁を廻し,後端に脇障子をつけ,正面に七段の木階と浜床を設ける。装飾の金具は使用していない。
屋根の箱棟の鬼板に伎楽面闌陵王の面,右側が赤,左側が緑に彩色され妻飾りは蕪懸魚,降り懸魚。虹梁の上に豕叉首(いのこさす),下に平三斗,両脇の身舎柱上は一手先組み物で軒桁を支える。
基礎は外周(犬走)を高さ60cmの切石で固め土を盛り上げ自然石の礎石に床束八角柱を乗せている。土台は無く不安定なため周囲を地覆いの板で押さえている。床下も壁板で覆い,内部は見えない。
向拝大虹梁と繁虹梁には線刻などの装飾は無いが両脇に渦巻紋の木鼻があり,虹梁上の蟇股には蔓桐紋が丸彫りされ,身舎柱の頭貫上の蟇股には、中央に水紋と魚,右に日輪と渦巻雲紋,左に月輪と渦巻雲紋が薄肉彫りされている。
本殿と拝殿のあいだは古来では石橋と参道で繋がっていて屋根は無かったが,昭和期に渡り殿を設営して,祝詞所と弊殿とした。
参考文献
「甲斐国志」 松平伊予守定能編,文化11年(1814)
(甲斐叢書第十一巻甲斐国志(中)広瀬廣一校定昭和49年刊)
「甲斐名勝志」 天明3年(1783) 萩原元克(ハギハラ モトエ)
「甲斐叢記」巻之四 嘉永元年(1848) 大森快庵(オオモリ カイアン)
「甲斐古社史考」赤岡重樹著,昭和11年(1936) オリオン堂
「甲斐國社記・寺記」(慶応4年1868)
(山梨県史料<12>第1巻,昭和44年刊行)
644~647頁の“社記并由緒書 二宮弓削神社宮司青嶋能登守(貞賢)”に鳥居高壱丈六尺五寸(495cm)とあり。
明治3年の「弓削神社之義書上帳」に参籠殿,随身門,鳥居(高壱丈六尺五寸,廣サ壱丈弐尺,瓦葺),角場の寸法, 屋根材についての記載あり。
(「弓削神社之義書上帳」弓削神社所蔵文書,弓削神社第28代神主青嶋礎石貞真が明治3年12月市川御廰へ提出した写し)
明治28年7月県庁に提出した「由緒並財産調書」では,鳥居壱基文政年中(1818~29)とあり。
(「由緒並財産調書」弓削神社所蔵文書 郷社弓削神社氏子惣代4名連名明治28年7月)
以上